夕焼けが山際に沈もうとしている頃、閑静な住宅街を一人の男が歩いていた。
手には帰りがけに寄ったスーパーの袋をぶら下げている。買い物袋からは適当に詰め込んだらしい商品がゴツゴツと姿を表し、納まりきらなかったネギが飛び出している。
四月とはいえまだまだ肌寒い日が続く。今日は鍋にしようと男は足取りも軽く自宅へと向かっていた。
(そういえば、あいつはシソの入ったつみれが好きだったな。冷蔵庫に余った鶏肉があったからそれで作ってやろう)
同居人の顔を思い出し、男は嬉しそうに微笑んだ。
最近一緒に住みだした同居人。
環境が変わってしまったためか最近少しやせ気味だ。少しでも活力をつけてやりたい。だからとりあえず好きなものを食べさせてやろう。そう思っての献立だった。
カンカンカン
郵便受けをチェックしてから築三十年という古いアパートの階段を上がる。自分の部屋は二階の一番奥だ。
「ただいま」
鍵を回して部屋の奥に声を掛ける。
返事はない。
1DKの狭い室内だ。聞こえないはずはなかった。
しかし男は気にも留めず買い物袋から食材を取り出し次々に冷蔵庫に入れていく。
料理は得意な方ではないが、同居人のためを思い様々な食材を買ってきた。
「今日はな、野菜が安かったんだ。それからお菓子も買ってきたぞ。お前甘いもの好きだっただろ」
入れながらも話を続ける。
だか、やはり返事はなく殆ど独り言のようになっていた。
全ての買い物を整理し終えて、さすがに違和感を感じた男は同居人がいるはずの奥の部屋へと向かう。
元々綺麗好きなほうではあったが、最近は同居人ができたこともあり室内はいたって片付いていた。
「返事くらいしろよ。ああ、話せないんだった。ごめんごめん。ほら、お兄ちゃんが帰ってきたよ」
笑みを浮かべながら戸を開けると誰もいない部屋が目に入った。
ベッドには繋ぐ対象を失った縄がぶら下がっており、血と唾液が滲んだ猿轡が残っていた。
それを見た男の顔が豹変した。
「おい! どこにいるんだ!」
今までの温厚な態度とは一変して大きな声を上げる。
ドシドシ足音を立てて狭い室内を探し回る。その姿は昔話に出てくる鬼のようだ。
ピチャンという水の跳ねる音が耳に届いた。
場所は風呂場。
男は相手のことなどお構いなしに乱暴に浴室の扉を開けた。
狭い室内。まるで墓場のように静まり返った空間。その中で男は呆然と立ち尽くした。
そこは一面緋色に染まっていた。
中央にはぐったりと倒れている裸の少女がいる。
男の同居人であり、妹である少女だ。
元は長かったのであろう髪は長さがバラバラで、残った長い髪が水草のように浴槽の中をふよふよと漂っている。
可愛らしい顔は蒼白で、目は虚ろに開いている。
彼女の右手にはカッターナイフが握られており、逆の左手首はそれにによって数回によって切りつけられた線のような傷が付いている。その手は浴槽いっぱいに溜まった水に沈められていた。
流れ出た血のため浴槽の水は赤く染まり、蛇口からは漏れ出た水が水面で弾け少女の顔を汚した。
「ぐっ・・・」
男はあまりの光景に胃の中のものを全部吐き出した。
ゴホゴホとむせかえる。
男は手の甲で汚れた口を拭うともう一度少女を見た。
赤い光景は変わることはなかったが、落ち着いてよく少女を見ればわずかに胸が上下している。
生きている!
今助けを呼べば助かるかもしれない。
(とにかく、警察に!)
慌ててポケットから携帯を取り出し110番を押そうとした。
だが動揺からか手が震え、ボタンをうまく押すことができない。
早く、早くと焦る気持ちとは裏腹に、驚くほど冷静な自分が問いかけた。
(ちょっと待て。今この状態で警察が来たらどうなる?)
男の思考が現在状況を素早く分析する。
部屋には少女を繋いでいた縄と猿轡。裸体の少女。それに彼女が束縛から抜け出したにも関わらずここで自殺を謀った理由。男にはそれにいたった訳が分かっていた。
(警察を呼ぶのはヤバイ)
男は携帯を閉じ、ポケットに戻した。
しかし、このままというわけにもいかない。
(どうする)
男は少女を注視した。
このままでは少女は死んでしまう。だが、通報すれば自分の身が危うい。
(どうする。どうすれば――――!)
思案する男の鼻腔を甘い香りがくすぐった。
それはあたりに充満している血の匂い。
ドクン
男の心臓が大きく脈打った。
ドクンドクンッ
胸が熱い。張り裂けそうだ。
男の視界が一変する。
茜色の夕日。赤く染まった室内。濡れた白い少女。
この絶望的な光景を、男は何故か美しいと思った。
ゴクリと唾を飲むと、一歩足を踏み出す。
頭の片隅で警告音が鳴る。
ひどく喉が渇く。
男はある衝動に駆られた。
善と悪が男の中で葛藤する。
欲望に駆られてはいけないと、理性ある自分が言っていた。
だた、かぐわしいほどの血の匂いはわずかに残っていた理性を意図も簡単に切り離し、男の中で何かが切れた。
(こいつはもはや自分のの物にはならない。だが、今なら自分のものに、本当に一つになることができる)
男はおもむろに少女に近づくと、その白い頬を撫でた。濡れて顔に張り付いた髪の毛を優しく掻き分ける。
そっと額に口付けてから赤い浴槽から少女の腕を引き上げた。そして血の流れ出る手首に目を細めた。
つっと二の腕から唇を沿わせ、傷口に到達するとそれに吸い付いた。
ズッ・・・ジュル・・・
不気味な水音が反響する。
血をすする音がやけに室内に響いたが、男は止めなかった。
苦い鉄の味が口に広がる。
男にはそれが最高の媚薬のように思えた。
一度だけ、もっと血が流れるようにと傷口に歯を立てたとき少女がピクリと動いた。だが、それ以降彼女が動くことはなかった。
気の済むまで血をすすり、ようやく男は手首から口を離す。口の周りには血が付いていた。
ぺろりと唇を舐め、舌で届かないところは手で拭った。さらに手に付いた血まで丁寧に舐め取る。
人として外れている行為であることは分かっている。
それでも、男はこの行為によって得られる快楽に気付いたことに興起した。自分の内に今までにないエネルギーを感じる。
その瞳には少女の死を思う悲しみはない。あるのは新しい自分を見つけた悦び。
今まで自分は不幸な人生を地味に送ってきた。けれど、もう自分はただの人間ではない。
選ばれし者―――ヴァンパイアだ。
男は高らかに笑った。
その声は狭い風呂場に幾重にも反響した。