一限目の授業が終わった。
授業の間、浅緋はまだ教科書の揃っていない一希に浅緋は教科書を見せてやり、今はどこら辺を習っているとか、授業の進み方などを教えていた。
「助かった。明日には教科書もそろう」
授業の終わった後、一希は礼を言った。浅緋は素直に礼を言う一希に驚いた。何となくだが、冷たい印象を持っていたのだ。
「気にしないで。それより凄いじゃない。さっきの時間、難しい問題をスラスラ解いちゃって」
「たまたま前の学校でやってたところが出ただけだ」
一希はなんでもないと答えた。
一限目の授業は数学U。まだ始まったばかりの項目で、浅緋にはさっぱりの問題だった。
数学担当の遠野の説明を聞きながら頭を悩ませていたのだが、運の悪いことに見事に当てられてしまったのだ。
とりあえず立ち上がってみたものの、答えはやっぱりわからない。
間が空きすぎて焦っていると、隣の席の一希がこっそりと教えてくれたのだ。
自分のノートをわずかにずらし、トントンと指で示す。
x=3√2
ノートにはそう書いてあった。
「どうした。分からないのか? 分からないなら居残りで課題を出すぞ」
理不尽な過重の罰に教室中も息を呑む。
「あの・・・」
どうしようと悩みながら遠野と差し出されたノートを交互に見合わせる。
「なんだ。降参か?」
ニヤニヤと遠野が嫌な目で見ている。クラスメイトも心配そうに様子を伺っていた。
「3√2。答えは3√2です」
「なんだ。分かっているじゃないか」
遠野は不満そうに言うと黒板に向き直った。背を向けたとたん教室中に安堵の息が漏れ、浅緋も力なく席に座り込んでしまった。
「あの時は本当に助かったよ。あの先生意地悪で結構有名なんだ。けど、私には特に厳しい気がする」
「へぇ」
そっけなく答える一希の目が一瞬鋭く光ったのは気のせいだろう。
「浅緋、さっきは災難だったな。お前が答えたときの遠野の顔、傑作だったぜ」
少し離れた席から愁がやってくる。彼なりに浅緋を心配していたようだ。
授業中も立たされる浅緋を心配そうに見ていたのを一希は思い出した。
「笑い事じゃないよ。ホントどうしようかと思ってたんだから。藤宮くんのおかげで助かったんだけど」
事のあらましを聞いて、愁は感心して一希を見た。
「やるじゃないか、転校生。俺は片山愁。コイツのクラスメイト兼幼馴染ってトコだ」
愁は笑顔で右手を差し出した。握手を求めているらしい。
一希は差し出された手を見つめ、戸惑うように握り返した。
「よろしくな」
愁はにっと笑った。
一希は愁のように笑うことはなかったが、愁は気を留めていないようだ。
「広瀬さんの名前は浅緋?」
「うん。そうだけど、よく分かったね」
「さっき片山も呼んでたし、それに教科書にも書いてある」
一希は机の上の教科書を指差した。考えてみれば簡単な答えである。
すっと一希の指が浅緋の名前を指す。その指がピタリとある文字で止まった。
「『緋』は血の色だね」
一希の目が朝と同じように細められた。
今度は気のせいではない。
浅緋がその真意を問おうとして口を開こうとした時、今度は小夜が話しに入ってきた。
「なになに? 何の話をしているの?」
愁と一希の間に割り込むようにして入り込む。消極的な小夜にしてはいつになく積極的だ。
「別に」
一希はそっけなく答える。
先ほどまで普通に話をしていたのに、全く興味がないという感じだ。
「あ、名前の話をしていたの。ほら、藤宮くん転校生だから」
場の悪さに慌てて浅緋が取り繕う。
「ふーん」
小夜は面白くなさそうに相槌を打った。その小夜の目に、机に広げられた教科書が目に留まった。
二人分の机に教科書は一組のみ。
「次の時間は私が見せてあげようか」
ずっと浅緋に見せてもらうのも悪いしね。と小夜は提案した。
しかし、一希はそれをきっぱり断った。
「いい。浅緋に見せてもらう」
その言葉に驚いたのは小夜だけではない。
転校初日からいきなり呼び捨てで呼ばれた浅緋が一番驚いた。
「浅緋だけズルーイ。私は内山小夜。小夜でいいよ。私は一希って呼んでもいい?」
明らかに不満そうに答えて、浅緋を睨みつける。逆に一希に声を掛けるときは少しトーンが高い。
「好きに呼べばいい」
一希に好意があるのは明らかなのに、当の本人はどうでもいいとでもいうように答えた。
しかし、小夜はそれでも嬉しかったようで、わずかに頬を高潮させていた。
(小夜って藤宮くんのこと好きなのかな?)
他人の恋は何となくわかる。女の勘というものだ。
そういえば、一希が最初に教室に入ってからずっと見ていた。オカルトばかりに興味を注いでいた小夜が生身の男に好意を寄せているのを見るのは初めてだ。
それにしても今日初めて会ったというのに、恋をするとは。
浅緋には考えられないが、男女の恋というのはそういうものかもしれない。
もっとも、恋愛ごとには無縁の浅緋に言えることではないのだが。
「っと、話だけで休み時間終わっちまったな。学校案内は次の時間だな」
女の態度の変わりっぷりに恐る恐る見守っていた愁が言い終わるのと同時に予鈴のチャイムが鳴り響く。
「ホントだ。次は社会だっけ」
ガタガタと慌ただしく席につく生徒たち。社会の担当は担任の江原だった。
委員長が号令をかけた。
「今日は先に授業に使うプリントを配っておく」
列ごとにプリントが配られる。前から後ろへ。次々にプリントが回される。
浅緋の元にもプリントが回ってきた。
受け取ろうとした時、紙がまるで刃のように浅緋の手を掠めた。
「イタッ!」
紙とは思えない鋭さに、右手の人差し指がサッと切れた。
傷口からは薄っすらと血が滲む。
隣の席の一希がギクリと体を強張らせた。そして神妙な顔で浅緋を見た。
「浅緋、今血が出たか?」
「え? うん。紙で切っただけだけど。別に大した傷じゃ・・・」
言い終わる前に一希は突然立ち上がると、浅緋の腕を掴んで教室から出ようとした。
「何!」
浅緋は驚きながらも無理やり連れてかれそうになって抗議した。
だがもうドアの近く。浅緋の体は半分外に出ていた。
「藤宮、どうしたんだ」
いきなりのボイコットに呆気に取られていた江原も、正気に戻って声をあげる。
「保健室へ」
振り返りもせずにそれだけ言うと、一希は浅緋を引っ張って教室を出て行った。
後に残った生徒は一希の必死の形相に何があったのだろうかとヒソヒソと話を始める。
こんなことは前代未聞だ。
様々な憶測が周囲を飛び交う。
「静かにしろ。広瀬が気分でも悪くなったんだろ。授業に戻るぞ」
そう結論づけた江原は授業に戻るため生徒たちを勇めた。
一希のただ事ではない様子に生徒たちも納得して黙り込んだが、それでもところどころでヒソヒソと話す声が聞こえる。
そんな中、一希の動向をずっと見ていた小夜は、手を挙げ江原に提案する。
「でも先生、藤宮くんって保健室どこか分かっているのかなぁ」
学校案内もまだ済んでいないのだ。そんな人間に病人を連れて行かせるのは酷な話である。
江原は思い直したのか、顎を擦りながら許可を出した。
「そうだなぁ。よし、内山付いてってやれ」
「はーい」
小夜は二人を追って教室から出て行った。
「じゃ、先生俺も二人が心配だからさ」
小夜に便乗して愁も追っていこうとする。
「片山、お前はダメだ。どうせサボるつもりだろ」
江原はあっさり切り捨てた。
「チェッ、そりゃねぇよ」
クラスに笑が巻き起こる。
もう誰も出て行った三人のことなど気にしていなかった。