先に教室を出て行った一希と浅緋。
浅緋は相変わらず一希に引っ張られる形で廊下を進んでいた。
「ちょっと待って、痛い!」
その声に一希はハッと我に返り、歩みを止めて浅緋の手を放した。
「悪い」
浅緋は解放された手を擦って一希を睨みつけた。
「一体何なの? 急に連れ出したりして。それに、保健室はこっちじゃないよ」
「・・・・」
一希は何も答えない。
「もう。まだ案内してないんだから、分かるわけないでしょ」
「・・・・」
一希の様子は明らかにさっきまでと違っていた。
何か別のものに気を取られている、そんな風に見えた。
不審に思いながらも落ち着きなく黙りこんでしまった一希を見ていると、なんだかこちらが悪いような気がしてくる。いささか強引だが、一応は傷を心配してくれたのだ。
「・・・とにかく、保健室はこっち」
これまでとは逆に浅緋が先導して今度こそ保健室へと向かった。
その方向は今までとは真逆の方向だった。
「先生?」
保健室につくと、浅緋は中を覗いた。消毒液の独特な匂いが漂っている。
しかし中には誰もいない。ベッドも空っぽだ。
「いないのかな」
仕方がないので勝手に入らせてもらう。
誰もいないのに失礼しますと声を掛けてから先に浅緋が入り、それに一希が続いた。
「座れ」
一希は壁際にある長椅子に浅緋を座らせた。
自分も別の椅子を引き寄せて浅緋の目の前に座る。
「傷を見せろ」
一希は浅緋の手をとって傷口を露にした。皮が切れた程度の怪我なので血も微量で、ここに来るまでにすっかり乾き、傷口も塞がっていた。
一希は傷をじっと見つめた。
黒い瞳に映るのは、浅緋の指に滲む鮮血。
瞳が揺れる。
ゴクリと喉が鳴る。
理性と欲望が一希の中で葛藤するが、一希の本能はその欲望を忠実に実行した。
「道具はそこにあるよ」
治療を始めない一希に焦れて浅緋は薬棚を指差したが、一希は聞いていなかった。
妖しく揺れる瞳を伏せ、すっと浅緋の手を掲げると、傷のある右手の人差し指を口に含んだ。
微かに血の味が口に広がる。
一希は傷を舌でなぞった。
既に塞がっていたかのように思えた傷は、唾液に触れたことで再び開く。滲み出た血液を一希は吸い取った。
「・・・っ」
浅緋は小さな痛みと舌の動きにピクリと体を振るわせた。
一希の口の中で何か鋭いものが指に触れた。その感触に浅緋は背筋が凍りつく。
一瞬何かのヴィジョンが浅緋の脳内に現れた。
目の前に広がるのは一面の血のような赤。その中に月を背にして一人佇む男がいる。笑みを浮かべるその口には鋭く尖った牙が見えた。
「ヤダッ!」
浅緋は顔を青くして指を引き抜き、手を庇うように背中に隠した。
そして今度は一希の行動に頬を赤く染めた。
「何をするの?」
驚きと恐怖で声が震えていた。
一希は何も言わずに浅緋を見つめ、舌で唇を舐めた。
旨い物でも食べた獣のように、卑しく艶かしい動きに、ゾクリと寒気を感じる。
唐突にガラリと扉が開いた。浅緋はビクリと体を強張らす。
「どうかしましたか?」
入ってきたのは白衣を着た男。保健医である佐藤である。
誰もいないと思っていた部屋に人がいたので不思議そうな顔をしている。
「先生・・・」
佐藤は今春新しく来た校医だ。若くて優しくて結構美形ということで生徒からは人気急上昇中の人物だ。
浅緋もまだちゃんと会ったことはなかったが、第三者である人物が来たことでほっと胸を撫で下ろした。
「何でもありません。僕は彼女を連れてきただけですから。ね?」
平然とそう答える一希を浅緋は疑わしげに見た。
そこにいるのはいつもの一希。先ほどの妖しい一希ではない。
佐藤は確かめるように浅緋を見た。
「あ・・・」
浅緋は本当のことを言おうか迷ったが、指を舐められたなど恥ずかしくて言うこともできず、コクリと首を縦に振った。
正直に言えない自分がなんだか悔しい。
「そうですか。では、君はもう授業に戻っていいですよ。彼女は私が診ていますから」
だが事情を知らない佐藤はそう言って一希を退出させた。一希も大人しく佐藤に浅緋を託す。
「また後で」
何事も無かったかのように去っていく一希に浅緋は何も返せなかった。
(何だったの)
優しい一希。
一瞬戸惑ったかのように態度の変わった一希。
妖しく惑わすような一希。
一度にたくさんの一希を見て浅緋は混乱していた。
それにさっきのあの行為。
(どうしてあんなことを・・・)
思い出しただけで、指が熱を発する。それは傷のせいだけではない。
「それで、あなたはどうしました?」
浅緋の思考は佐藤によって遮られた。
保健室に来た目的を思い出して、浅緋は慌てて指を差し出した。
「あの、紙で指を切っちゃって」
佐藤は救急箱を持ってくると、先ほどまで一希が座っていた椅子に腰を下ろした。
「診せてください」
佐藤は浅緋の手を取り、注意深く指を診る。が、すぐに首をかしげた。
「おかしいな。何処も切れないよ」
「そんなはずは・・・」
浅緋も指を見てみた。
しかし、先ほどまで確かにあったはずの傷は何処にも見当たらない。
痛みもあった。血も出ていたはずだ。
(どうして?)
何が何なのかさっぱり分からない。
「感心しないね。彼氏とイチャつきたいなら校外でやりなさい」
「そんなんじゃありません!」
浅緋は思わず怒鳴った。
本気で起こる浅緋を佐藤はおかしそうに笑った。
からかわれたと気付いた浅緋は顔を赤くした。
「冗談だよ。君は明るくていい子だね。でも、嘘はいけない」
「・・・はい」
傷跡がないなら嘘と言われても仕方がない。
浅緋は不本意ながらも頷いた。
「でも、今日は特別。とりあえず、記録のために名前だけ書いといて」
「ありがとうございます」
きつい言い方をされて嫌な思いもしたが、話は聞いてくれる人だなと浅緋は思った。
(こんな風に生徒と打ち解けられるのが人気の要因なのかも)
念のためと絆創膏を貰って浅緋は保健室を辞した。
一人残された佐藤は入出記録を見て呟いた。
「広瀬浅緋・・・ね」
佐藤は怪しげな微笑を漏らして、文字をなぞった。