始まりの夢(1)




目の前に広がる深い闇と赤い海。浅緋はその中心にいた。
手に付いた液体を見る。
血だ。
赤い血が手にベッタリついている。
体見下ろすと服も同じ色に染まっていた。
そこでようやく赤い海に見えたのは、血溜まりだと気付いた。
カツと、足音が闇に響いた。
顔を上げると目の前には地上の色を跳ね返したような赤い月とそれを背景に佇む黒い影。
月光が跳ね返って、髪はキラキラと輝いていた。
逆光のため男の顔はよく見えない。
それでも男が美しいということは分かった。
月さえ霞むような容貌からは、人間性というものを感じることができない。
赤い鋭い瞳に射抜かれて浅緋は動くことができなかった。
浅緋は恐怖におののいた。ガクガクと体がありえないほど震えている。
にやりと笑った男の口から見える白い牙。
暗闇に包まれ、辺りは何も見えないはずなのに、何故か瞳と牙だけは見ることができた。
『絶望』『死』。終わりを継げる言葉しか頭に浮かんでこない。
本能が危険だと告げていた。逃げなければと。
しかし、動くことができなかった。視線すら男から話すことができない。
天敵に睨まれる小動物のような感覚に近かった。
少しずつ近づいてくる影。
浅緋はただその時を待つことしかできなかった。
男の手が首筋に伸びた。
浅緋の目の前が真っ赤に染まった。




「イヤアァァ―――ッ!」

 浅緋は自分の悲鳴で目を覚ました。
 カーテンの隙間からわずかに漏れた陽光が朝だということを告げている。
 見渡せばいつもの見慣れた自分の部屋。
 血の海など何処にもない。

(また、あの夢・・・)

 額を押さえて、膝を抱える。
 思い出そうとしても夢は手にすくった砂のようにさらさらと記憶の中から零れ落ちている。
 それでもわずかに残った夢の破片はそれが恐ろしいものだと伝えていた。
 じっとりとわずかに肌が汗ばんでいる。
 昔から見る同じ夢。
 実は浅緋には7年前の記憶が抜け落ちていた。
 広瀬家と片山家が一緒に旅行に行った日の夜。二つの家族は仲がよく、その日は特別な夜になるはずだった。
 その日の記憶が浅緋にはない。
 旅行に行ったことは覚えてる。
 何処に行ったのか、何をしたのか。楽しかったこと、面白かったこと。多くのことはちゃんと覚えているのに、その夜だけの記憶がないのだ。
 話を聞くと、あの夜浅緋は急にいなくなり、探しに行った愁が見つけたときには血まみれだったという。
 それから浅緋は幾度となく同じ夢を見るようになった。
 小さいころにはただただ怖い夢だったが、大きくなるに連れてそれがあの日の夜に関係しているのだと分かるようになった。
 しかし、その日のことを聞いても誰もが口を閉ざし、誰も真実を浅緋に教えてくれなかった。
 話したくないのも当然だと思う。無傷とはいえ娘がいきなり血まみれで帰ってきた時のことなど、誰も思い出したくない。
 何もできなかった事に母は泣き、父は驚くほど痩せてしまった。
 自然に浅緋もそのことを話題にするのを避けるようになった。
 だが何度となく見ているので、断片的にだが浅緋にはそれがどんなものかが分かるようになってきていた。
 今日は悲鳴を上げるところで夢から覚めてしまったが、時によってはこの後救世主となる男の子が登場する。
 何処の誰とも分からない、同じ歳くらいの男の子。
 彼はあの恐ろしい男から浅緋を守ってくれる。
 今日もそこまで見ることができたなら、こんなに目覚めが悪いこともなかったのだが。

(あの男の子・・・)

 今まで誰だか見当も付かなかったが、今初めてある人物を連想した。
 昨日学校に転向してきた藤宮一希。
 彼の出現によって朧げだった記憶は初めて夢の少年と重なった。
 それに昨日見えたヴィジョン。

(彼なら何か知っているのかも)

 確証など何もない。ただ縛全とそう思った。
 初めて彼を見たとき、何故か懐かしさを覚えた。それが唯一の手掛かりだった。
 時計を見ればいつもより少しだけ早い時間に起きたことが分かる。もう一度眠りについてもよかったが、浅緋はこのまま起きることにした。
 顔を洗い着替えてリビングに向かえば、朝食を準備している母親・巴と、テーブルで新聞を読んでいる父親・義昭がいた。
 浅緋の家族は両親と三人。
 会社勤めの父は朝が早いので、平日に一緒に朝食を取ることは珍しい。

「おはよう」

「あら、おはよう浅緋。今日は早いのね」

 巴が手を止めて笑みを作る。

「早く目が覚めちゃって」

 そう言って浅緋は朝食の準備を手伝った。動いていた方が気分が紛れるのだ。
 カウンターにあるサラダをテーブルまで持っていく。テーブルの上には既に巴が用意したトーストやジャムなどが置いてあった。

「あとはコーヒーだけだから先にて食べていていいわよ」

「はーい」

 浅緋は義昭とテーブルを挟んで座った。トーストにジャムを塗っていると巴がコーヒーを持ってきた。
 インスタントではなくちゃんと豆を挽いて淹れたものだ。しばらくコーヒーの香りを楽しんでから口をつける。程よい苦味が 口内に広がった。

「あなた、食事中に新聞は読まないでっていつも言っているでしょう」

「ん? ああ。この記事まで読んだら・・・」

 巴の注意に義昭は新聞から顔を上げることなく答える。
 ほぼ毎日繰り返されている光景だ。

「仕方ないわね」

 巴はいつものようにそれを許し、呆れ顔で浅緋の横に腰を下ろした。

「何か気になる記事があるの?お父さん」

 義昭は新聞から目を離さず答えた。わずかに厳然な表情が伺える。記事の内容はあまりいいものではなさそうだ。

「どうもこの近くで変死体が見つかったらしい」

「変死体?」

 物騒な言葉に浅緋は驚いて新聞を見つめる。といってもテレビ欄しか見えないので、義昭は読んでいた記事の内容を大雑把に述べた。
 義昭によると、浅緋の住むすぐ近くの街の山中で変死体が見つかったらしい。所有者が偶然見つけたという。遺体は裸で腐食がかなり進んでおり、恐らくは若い女性だろうということあった。
 遺体の状況も奇妙だったが、この死体の最も奇妙な点は血がほとんど残っていないことであった。裸体だったことと回りに遺留品がないため身元は判明していない。警察はその身元を調べると共に、犯人を捜しているところだそうだ。
 血と聞いて、浅緋は固まった。頭に夢の残像が浮かび上がる。
 嫌な不安が胸を締め付けた。

「ニュースでもやっていたわ。近頃変な人が多くなっているから、浅緋も気をつけなさい」

「・・・うん」

 巴の注意に浅緋は返事をするとパンを一口かじった。

「でも、そんなに心配することはないかしらね。行きも帰りも愁くんや久成くんが一緒ですもの。あの二人ならきっと大丈夫ね。ね? お父さん」

「あー、そうだな」

 巴は嬉しそうに愁と久成を褒めたが、義昭の方は何だが複雑な表情をした。
 ここ最近、愁と久成の話になるとこんな感じだ。

「この頃二人ともすっかり男らしくなって、お母さん目の保養になるわー。あんなカッコイイ幼馴染がいるなんて、浅緋は幸せ者ね」

「はいはい。じゃ、もうそろそろ出かけるから。ご馳走様」

 ミーハーな性格を見せる巴を軽くあしらって、浅緋は朝食を終えると鞄を持って隣の片山家と向かった。