夕刻、まだ明るい時間に浅緋は駅で梓と別れた。とりあえず、愁にこれから帰ると連絡はしておく。
すると意外にも駅まで迎えに来てくれると言ってくれた。
浅緋は電車の時刻を告げて、その通りの電車に乗ったのだが、疲れからかいつの間にかこっくりこっくりと舟をこぎ、気が付けば降りる駅をちょうど出たところだった。
しまったと思ったが既に遅く、虚しくも閉まったドアを恨みがましく見つめ、次の駅で降りる。
時刻表を見ると次の電車までかなりの時間が空いていた。
駅で待っていてもよいのだが、ただホームにいるのもなんなので外へ出てみることにする。
コンビニがあるかもしれない。そこで雑誌の立ち読みでもしておこうという魂胆だ。
「うぅ。愁くんに電話かけたくないなぁ」
歩きながら浅緋は一人言ちた。
わざわざ迎えに来てくれるのに寝過ごしたと言ったら『何やってんだ。バカ』と言われそうな気がしてならない。いや、絶対に言われる。
浅緋は立ち止まって重い溜息を付いた。
ふわっとした柔らかい感触が足首に触れる。
どこからかやってきた猫が足にまとわり付いていた。
「かわいい」
白と黒のブチ猫だ。鼻先の黒い模様が不細工で妙な愛嬌がある。
撫でてやると猫は喉をゴロゴロ鳴らして、答えるように尻尾だけパタパタと動かした。
(日は暖かいし、猫とのんびり時間をつぶすのもいいかも)
浅緋はしゃがみ込んで本格的に猫を撫で始めた。
耳の裏をカリカリと掻いていると、突然ピクリと猫が顔を上げた。そして何かから逃げるように浅緋から走り離れてしまった。
「あっ」
残念そうに猫を見送った後、何に驚いたのだろうかと猫の見ていた方向へ視線を移す。
そこにはもう見慣れた人物が立っていた。
藤宮一希。今一番会いたくて、会いたくない人物。
「家、この近くだったの?」
浅緋は尋ねた。
「早く帰ったほうがいい」
返ってきたのは答えではなく忠告。
浅緋は少しムッとして一希を見る。
「私がどこにいようと勝手でしょ。あなたには関係ないじゃない」
「確かに。でもそういうわけにもいかないんでね」
一希が近づいてくる。
ある程度で止まるかと思った距離は息使いが聞こえるほど近い。
しかし、抱きしめるとかそんな気はないらしく、周囲に見せ付けるようにただそこに断っていた。
頭一つ分高い背を見上げると、あの秀麗な顔が目の前にあり不覚にも心臓がドキドキと音を立てた。
「ちょうどいいわ。あなたに聞きたいことがあったの」
窮地に陥ったせいで腹の決まった浅緋は積極的に話を切り出した。その反応に意外そうに一希が首を傾げる。
「面白いね。何?」
「七年前のことよ。私には記憶が欠けているの。あれから同じ夢を見る。目の前が真っ赤に染まって、男の子が助けてくれる夢」
それを聞いて一希は嬉しそうなちょっと困ったような顔をした。
「あなたはあの時助けてくれた男の子にそっくりだわ」
「・・・・」
「何も言わないのね。それなら肯定として受け取るわよ」
少しイライラしながら問い詰める。
「・・・忘れてるならそのほうがいい。あいつもそれを望んでいない」
はっとする。
初めて会ったときも同じようなことを言っていた。
浅緋は確信した。
「知っているのね。思ったとおりだわ。でも、私は思い出したい。はっきり言っていい思い出じゃないだろうけど」
夢の内容から考えてその点は容易に想像できた。
顔を伏せ少しだけ声のトーンを落とす。
「愁くんやお母さんたちにも聞くんだけど、みんな口を閉ざしちゃって。みんな優しいから、私のためだとは分かっているの。でも、私は・・・。ねぇ、あなたはその時のことを本当に知ってるの?」
浅緋は顔を上げて一希を見つめた。
一希はしばらく黙っていた。その間じっと見つめられる。
見定められているのだと分かった浅緋は、その視線を真正面から受け止めた。
「結果だけいうなら、僕は浅緋の欲しい答えを知っている」
「ホントに!」
浅緋の顔がぱっと明るくなった。
「それなら話は早いわ。教えて」
「悪いがそれはできない。あいつとの約束だからな」
あいつ?
「さっきもいいたよね。『あいつ』って誰?」
誰何する。あの場に他に人がいただろうか。
目の前に知りたいことがあるのに手が届かないもどかしさに苛立ちが募る。
声も比例して大きくなっていたが、そんなことはどうでもよかった。
焦る浅緋を尻目に一希は相変わらずな態度を取り続けている。
「それも言わない約束だ」
「何でもかんでも秘密にするのね」
結構強情な性格らしい。
「ついでに言っておくと、君の推測は半分当たりで、半分外れている。最も重要なのはそこにはない」
謎掛けのような言葉に浅緋は眉根を寄せた。
「僕からも質問させてもらおう。されてばかりではフェアじゃないからな。浅緋は思い出してどうするんだ?」
「どう・・・する?」
きょとんと一希を見る。それまでの熱が一気に冷めた。
一希が聞いてきたのは『どうして』ではなく、『どうするか』。知った後のことを尋ねられたのは初めてだ。
「わからない。どうしたいかなんて考えたこともなかった。私はどうしたいんだろう」
「片山や、母親も黙っているくらいだ。知らなくて幸せならそれでいいじゃないか」
最もな意見だ。皆自分を守ろうとしてくれている。それを拒否して思い出すことは彼らを裏切ることなのであろうか。
「・・・そうなの、かな」
浅緋は思案した。一瞬顔を曇らせた浅緋。
迷わないといえば嘘になる。どんな記憶なのか分からない浅緋には果たしてそれが思い出すに値する記憶なのかも定かではない。
「藤宮くんはどうなの?」
「僕?」
予想外の質問に一希は目を瞬いた。
「私と会ったことあるんでしょ?私が忘れちゃって寂しくない?」
「僕・・・は」
初めて一希の心が揺れた。
浅緋にあの出来事を忘れていて欲しい。
自分のことを思い出して欲しい。
矛盾した考えが一希の脳裏に浮かぶ。
真っ直ぐな瞳が向けられる。互いにそれぞれの答えを探して見つめ合っていた。
沈黙が続く中、突如浅緋の携帯が鳴った。二人がビクリと体を震わせる。
浅緋は慌ててバッグから携帯を取り出した。
発信者は片山愁。
「いけない! 愁くんのことすっかり忘れてた」
浅緋は慌てて電話に出た。
『おいっ! 今何処にいるんだ!』
いきなりの怒鳴り声に浅緋は思わず携帯を耳から話した。
「ごめんなさい、愁くん。その電車の中で寝過ごしちゃって」
『何やってんだ! バカッ。久成も心配してんだぞ』
予想通りの返答に浅緋はうな垂れた。
当然愁の声は隣にいる一希にも聞こえてくる。
一希は溜息をつき浅緋の携帯を奪った。
「そのくらいにしてやれ」
『お前、藤宮か?』
いきなり声が変わったことに驚きながらも、愁は見事に相手を当てて見せた。
「当たり。浅緋なら大丈夫だ。偶然会ってずっと一緒にいた。今から駅まで送っていくから、安心しろ」
『あ、ああ。じゃなくてっ! なんでお前そこにいるんだよ』
「こっちにもいろいろあってね」
『ったく。じゃあよろしく頼む。もう一回浅緋に替わってくれるか』
「分かった。ほら」
一希は携帯を投げた。
「投げないでよ!」
浅緋は携帯をキャッチすると、しばらく愁に小言を受けてから電話を切った。
「はぁ。すっかり怒っちゃってるよ。私が悪いんだけど」
力なくうな垂れる。もう一希にはむかう気力もない。
それを労うようにポンと一希が肩を叩いた。
「駅まで送っていく。なんなら一緒に行って愁たちに説明してもいい」
コロコロ変わる態度。浅緋が一希のことを掴めないのはそのためだ。
彼は何かを隠している気がする。
漠然した考えだが、それは案外的を得ているのではないかと浅緋は思った。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「そうはいかない。駅まで送っていくと約束した」
勝手に決めて駅に向かって歩き出す。浅緋は付いていくしかない。
「約束約束ってかなり約束にこだわるのね」
「僕は儀を通しているだけだ」
この後一希は本当に愁たちのいる駅まで送ってくれた。それもわざわざ電車代を自腹で切ってだ。
浅緋もそこまでしなくていいと断ったのだが、全く聞き耳を持ってくれず、走行している時間に電車が来てしまったのだ。
移動中、二人は一言も話すことなくそれぞれ考えに耽った。
駅に着くと、愁だけでなく、久成も駅で待ってくれていた。愁に散々説教をされ、久成からも注意を受ける。
帰り際、浅緋を呼び止めた。愁たちに聞こえないようこっそりと耳打ちする。
「答えが出たら明日僕のとこにこい」
「え?」
「大丈夫だ。取って食ったりはしない。明日校門で待ってる」
何を考えているのかと相手の目を見ようとすると、すっと誰かの背中が視界を遮った。
「片山」
割って入ったのは愁だった。
愁は浅緋をくるりと一八〇度方向転換させて前に押しやる。
「久成―、こいつ送ってやってくれ。ついでにルルの散歩も頼む」
「はぁ? 兄貴何のためにきたんだよ」
兄の勝手なお願いに、弟が反抗する。
「悪ぃ。今日のおかずちょっとわけてやるからさ」
目の前で手を合わせて交渉する。
「なんなのそれ。いらないっつーの!」
「今日はお前の好きなエビフライだぜ」
それを聞いて久成は頭の中で散歩とエビフライを天秤にかけた。そして彼の出した答えは、
「しかたないな。行こう、浅緋」
交渉成立。
久成に手を引かれて歩き出す。
振り返ると一希が手を振っていた。
「さてと、お前にはちょーっと話があるんだけど」
二人が道を曲がり姿が消えたところで一希に向き直る。
「お前の弟面白いな。見てて飽きない。エビフライ好きは昔からか」
「久成のことはいい。それより、俺は浅緋に気付かれないようについてくれと言ったはずだけど」
「事情が変わったんだ。第一、気になるなら自分が傍にいればいい。僕が傍にいるより遥かに自然だ」
「こっちも事情があるんだよ。だからお前を呼んだんだろ。で、どうだった」
周囲に聞こえないようにこそこそ話す。男同士が顔を近づけて話す光景は、さぞ周囲を魅了することだろう。
「お前の言ったとおり、誰か浅緋のことを付けねらっているのは確からしい。今日見たのは二人。一人は放っといてだろう」
こちらは浅緋をつけているというより、一希をつけていた。
昼間の行為で熱をさらに上げてしまったらしい。
自分の責任なので、こちらの方はのちのち処理しておくことに一希は決めた。
「あとは・・・おい、どうした?」
愁は片手を壁につき、前屈みになっていた。息も荒い。額には脂汗が滲んでいる。
ゼーゼーと荒い呼吸の中で、「水っ」と短く要求した。
一希は急いで近くの自動販売機でミネラルウォーターを買ってくると、キャップを開けて愁に渡した。
愁は乱暴にそれを受け取ると、五〇〇ミリリットルの中身を一気に全て飲み干した。
少しくらい零れようがお構いなしだ。
飲み終わった後、一希は愁を人気のないところへ連れて行く。ここから先はどうしても人に聞かれたくない話だ。
「最近やけに喉が渇く」
愁は唇を拭った。まだ足りないのか、名残惜しそうに空になったボトルを振った。
「限界だな」
一希の言葉に愁がギクッと顔を向ける。
「限、界?」
「大量の水分補給。ペットの犬には嫌われる。兆候が出ているじゃないか。お前、いつからこんな状況だったんだ? よく今まで平気でいられたものだ。人を襲わなかったのが奇跡に近い」
「・・・・っ」
愁は唇を噛んだ。
認めたくない。まだ・・・。
「喉が渇くんだろ? お前の喉の渇きは普通の水なんかじ治まらない。お前も分かっているはずだ」
一希は全て見通しいるという風に淡々と告げた。
「お前が俺を呼んだ理由。それは浅緋のガードのためなんかじゃない。確かに怪しい影はあったが、それは俺じゃなくても対処できたはずだ。俺を呼んだ本当の理由は・・・」
「黙れ!」
愁は壁を拳で叩いた。外壁がパラパラと落ちる。人間の出せる力ではない。
ギラッと瞳が光る。
「力も増幅」
一希は気の留めることもなく分析する。
言われなくても己の変化は自分自身が一番よく分かっている。
「俺は、ただ守りたかっただけだ・・・」
ガクリとうな垂れる。
「分かってる。今も昔もお前はただそれだけだった」
静かに呟くと、一希は鞄からカッターを取り出し、それを自分の掌に当てた。
わずかに力を込めて引き抜くと鋭い刃が柔らかい肉を切りつける。
ポタポタと鮮血が地面に落ち、いくつもの血痕を残した。
痛みを感じないのか、表情に苦痛の色はない。
ドクン
血臭に愁の心臓が大きく脈打つ。
目を見開いて血の流れ出る一希の掌を凝視する。その瞳は血の色と同じ色に染まっていた。
「やめろっ!」
それは一希ではなく自分自身に向けた言葉だった。
愁は自分の中の獣を押さえるように自分を抱きしめた。
体が熱い。
内なる自分が血を求めている。
拒否する心とは裏腹に、愁は一希の腕を掴んだ。
「七年前と同じ方法だ。そこまで進行してしまったら、もってあと数日。それまでに片を付けろ」
一希はさらに血が出るように拳を握った。
「・・・くっ」
愁は苦悩の言を漏らすと、無我夢中で鮮血を貪った。