吸血鬼(3)




 次の瞬間浅緋の右サイドから「ぎゃっ」という悲鳴が聞こえ、ドサリと倒れる音が聞こえる。
 同じように左からも同じような悲鳴が聞こえる。何かにぶつかる音がして、ガラガラと何かが崩れ落ちた。
 ツンと鼻につく異臭が周囲に広がる。独特な匂いから倒れたのはペンキだと嗅覚で分かった。
 この場に立っているのは浅緋と彼女を捕らえる男のみ。

「どこだ、どこに行った!」

 もはや虚勢だ。
 男は浅緋が逃がさないように必死に押さえている。
 彼女さえいれば自分は安全だと思っているのだろう。
 男は浅緋を捕まえながら当たりをきょろきょろと見回した。

(何が起こってるの?)

 浅緋も見渡すが一希の姿は見当たらない。

「どこを見ている」

 ピタリと男の動きが止まった。
 男の首筋には鋭い爪が当てられている。

「彼女を放せ」

 いつの間にか一希は背後に回っていた。その声は本当に寒気がするほど冷ややかだ。

「お、お、俺を触れるとこの女だってただじゃすまねぇぞ」

 強がっているが、その声は震えていた。
 そんな男の態度を一希は嘲笑った。

「やれるものならやってみろ。それより先にお前の首を掻き切ってやる」

 それは脅しではなかった。
 彼ならそれを本当にやってみせる。
 そんな力が言葉に含まれていた。
 その証拠に少しだけ首筋に爪を当てて見せた。
 触れただけで首筋から赤い鮮血が漏れる。

「わ、分かった」

 男は観念して浅緋を解放した。
 自由になった浅緋はできるだけ男と距離を取る。
 それを確認して一希は男の胸倉をつかんだ。

「誰の差し金だ」

「知らねぇよ」

 ギリッと掴む力を強くし、赤い瞳で睨みつける。

「ほ、本当だ。俺らはメールで雇われたんだ。顔も名前も知らねぇよ。約束された金もあったし、俺らは言われたことを実行しただけだ」

 男は吐き出すように答えた。
 言っていることに嘘はなさそうだ。
 一希もそう判断したのか乱暴に男を突き放した。
 男は壁に寄りかかるようにズルズルと座り込んだ。

「アイツらを連れてさっさと去れ。目障りだ。それから俺たちのことは他に過言するな」

 男はヨロヨロと倒れた仲間に這いより、肩を貸してこの場から去ろうとする。

「そうそう、携帯は置いていけよ」

 思い出したように一希は言った。
 男は信じられないと振り仰いだが、鋭い眼差しを見て慌てて形態を取り出した。

「おっと、叩きつけて壊そうとするなよ。重要な証拠だからな。その場に置いてゆけ。そしたら見逃してやる」

 男は悔しげに睨みつけながらも黙って地面に携帯を置き、今度こそ去っていった。

「あの、藤宮くん・・・」

 ゆっくりと月を背にして一希が振り向く。

「その姿・・・」

 赤い瞳、白い牙。
 気配さえも彼がただの人ではないことを現していた。
 その姿は夢に見るあの男と類似している。
 自分と一希を襲った男たちも怖かったが、今の一希にも恐怖を覚えた。
 ドクドクと心臓がうるさく音を立てる。握った掌に汗がにじみ出ている。
 カツと靴を鳴らして一希が近づいてきた。
 脳裏にあの日の夢が鮮やかに蘇る。
 目の前に広がる深い闇と赤い海。
 カツと、足音が闇に響く。
 顔を上げると目の前には地上の色を跳ね返したような赤い月とそれを背景に佇む黒い影。
 月光が跳ね返って、髪はキラキラと輝いていた。
 わずかに見える男の顔。
 赤い鋭い瞳に射抜かれて浅緋は動くことができなかった。ガクガクと足が震える。
  にやりと笑った男の口から見える白い牙。
 本能が危険だと告げていた。逃げなければと。
 しかし、浅緋は動くことができなかった。
 少しずつ近づいてくる影。

「・・・っ、・・ア・・・」

 叫ぶこともできない。浅緋の目には涙が浮かんでいた。
 今目の前にあるのは夢ではない。現実だ。

(あの時と同じ―――)

 そう認識したとたん、頭の中でパキンと氷を割ったような音が響いた。夢と記憶が入れ替わる。
 浅緋はガクリと膝を突く。傾く体を支えるように地面に手を突いた。
 浅緋は全てを思い出した。
 違った。彼は違った。助けてくれた男の子じゃない。
 一希の手が浅緋の首筋に伸びた。

「やめろっ!」

 聞きなれた声が耳に届いた。
 そして大きな頼もしい背中が浅緋を庇うように前に現れる。

「しゅ、くん・・・」

 浅緋は愁を見上げた。
 愁は一希を睨みつけた。

「てめぇ、何のつもりだ!」

「ようやく来たか。はっきり言って遅すぎる。おかげで僕まで悪者扱いだ」

 言葉とは裏腹に、一希は嬉しそうだ。そして浅緋に視線を向ける。

「浅緋、思い出せ。君が思い出したいことを。思い出したい者を」

 その言葉で一希の意図を察した愁はまさかという表情で浅緋を振り返った。
 浅緋はじっと二人を見ている。

(知ってる。私は、この光景を知ってる)

 絡まった糸がするすると解けて一本の線になる。
 身を挺して庇ってくれたのは小さな体。いつもはそんなこと思ったこともないのに、あの時はとても頼もしく見えた。
 そして今、目の前に同じ背中がある。
 心配そうに自分を見つめる表情もあの時と同じ。

(それじゃ、あの時助けてくれたのは・・・)

「愁、くん?」

 はっと愁が目を見開く。
 浅緋は確信した。

「思い出した。思い出したよ・・・」

 ポロポロと涙が零れた。
 ありがとう。ごめんなさい。どうして?
 たくさんの感情が渦巻いて、何から話していいか分からない。ただ、涙だけが止めどなく溢れる。

「一希ぃぃ!」

 愁は一希に向かって拳を振り上げた。
 ずっと隠しておくつもりだったのに。
 愁は怒りを思いっきりぶつけた。
 一希の体は三メートルは飛んだ。ザザッと音を立てて地面を転がる。
 よろよろと立ち上がると、今度は一希が愁を殴りつけた。
 愁は一希の倍ほど飛んで、地面に倒れたまま動かない。

「愁くん!」

 思わず愁に駆け寄る。

「ぐっ」

 愁は痛みに顔を歪ませたが、意識があることに安堵した。

「ふん。少しは頭が冷えたか」

 一希はペッと血交じりの唾を地面に吐いた。
 愁はかすむ目で泣きすがる浅緋を見た。

(言われなくても分かってる。俺が一番許せないのは俺自身だ)

 一番殴りたかったのは自分自身。それを一希に向けるのはお門違いだと分かっていた。
 一希には感謝している。
 そのときが車で傍にいたいという我侭を聞いてくれ、そして今もこうして待ってくれている。
「・・・ごめんな」

 愁は手を伸ばし、浅緋の頬に触れた。そっと親指で涙と拭う。

「俺はいつも泣かせてばかりだ」

 浅緋はブンブンと頭を振った。

「嬉しいの。あなたがあの男の子で。あの時伝えれなかったけど、いつも私を守ってくれて、ありがとう」

 本当は謝りたい気持ちが強い。でも、伝えたかったのは感謝の気持ちだ。
 浅緋はそっと愁を抱きしめた。

「辛かったよね。ごめんね」

 忘れててごめんなさい。
 傷つけてごめんなさい。
 我慢をさせてごめんなさい。
 そして、それ以上にありがとう。

「・・・いいんだ。もう、いい」

 愁は抱き返した。
 しばらくそうしていた後、愁は顔を上げた。

「お前も悪かったな」

 愁は立ち上がる。浅緋は支えようとしたがそれを手で制した。。
 パンと音を立てて埃をはたく。

「血を分けてやったものに、目の前で死なれたら目覚めが悪いだけだ。同種が招いたこととはいえ、俺にも責任がある。お前らがこれからどうするか、この目で見定めてもらう」

「お前はいつもそうだな。責任責任って。俺はそんなの関係なしであんたに感謝してるってのに。素直じゃねぇの」

 愁は苦笑したが頬が痛むらしく、すぐ笑うのを止めた。

「あの、ちょっと聞きたいんだけど・・・」

 浅緋は混乱していた。
 一希は人ではない。それは分かる。そうじゃないなら、急に目の色が変わったり、あんなスピードで動いたりできない。
 だが、二人のこの仲の良さはなんだろう。まるで喧嘩した後わかりあった昔からの旧友のようだ。

「あなたは何者なの?」

 全ての疑問を含めて尋ねた。

「助けてくれた男の子でもないし、雰囲気は似てるけど私を襲った男でもない」

 愁と一希は目配せをして、決心したように頷いてから告白した。

「僕はヴァンパイアだ」

 浅緋は口を開けた。
 傍から見ればかなり面白い顔をしていたに違いない。
 一希がヴァンパイア?

「ヴァンパイアって、あの、人の生き血を吸うっていう・・・」

 小夜が言っていた。ヴァンパイアは本当にいるのだと。
 だか、それは架空の話であって、本当にいるとは誰も信じていない。
 それが今目の前にいる。

「ウソ・・・」

 信じられないが、どこかでそれを肯定している自分もいた。
 にっこりと一希が微笑む。
 愁を見ると、「残念ながら」と一言。
 ゴクリと喉が鳴った。
 本当なのだ。

「混乱するのも無理はない。記憶を思い出したせいで、精神的にもかなりの負担がかかっているはずだ。とりあえず場所を移すとしよう。ちょっとばかり暴れすぎた」

 喧嘩をしていると誰かが通報でもしたのだろう。浅緋たちがその場を離れると同時に遠くからサイレンの音が耳に届いた。